BREAK THROUGH 〜挑戦者たち〜とは
誰にでも諦めたい気持ちになることはある。暗いトンネルの中に放り込まれたような長く、辛い道のりだ。それは、第一線で活躍するアスリートや指導者も例外ではない。彼(彼女)らは、これまでどのような道を辿ってきたのだろう。『BREAK THROUGH 〜挑戦者たち〜』は、今活躍する指導者や選手の挑戦と挫折についてのインタビューを通じ、そのパーソナリティに迫るものである。
シリーズ2回目は、早稲田大学競走部所属の中谷雄飛選手。
陸上名門校として知られる佐久長聖高校で、「負けなし」時代を突っ走り、世代最強として早稲田大学へと進学した中谷雄飛選手。大学入学後すぐは順調にスタートを切ったように見えたものの、1年生途中から不振に襲われ、走れない日々が続いた。それでも数ヶ月の期間を経て、彼はトンネルを抜けて輝かしい結果を残すようになる。
トップを味わっていた彼が、大学に入り直面した壁。一体、どのように乗り越えたのだろうか。また、さらなる飛躍を目指し飛び込んだというケニアの地で、一体なにを得たのだろうか。
「メダルがほしい」から始まった陸上競技人生
子どものころは水泳に力を入れいた彼を陸上競技の道へと引き込んだのは、小学生時代に出場した街のマラソン大会がきっかけだった。
「小学校2年生のときに初めて出て、7番で賞状をもらいました。だけど、やっぱり3位以内に入ってメダルをもらいたかった。それから水泳のかたわら、次の年に向けて母が一緒に練習してくれて。そこから少しずつ長距離をやり始めたんです」
「メダルがほしい」という純粋な憧れのもと始めた陸上競技。中学に上がるころには陸上一本に集中することを決め、水泳は辞めた。 クラブチームに所属して実力をつけていった中学時代の中で、力がついてきたと感じたのは、中学3年生になったころだという。
「当時は800mと1500mをメインでやっていて、中学3年になってから安定して結果を残せるようになりました。全国大会の1500mで8位に入れたり、3年生のシーズンインとともに少しずつ上がっていったと感じています
それから、長野県代表として都道府県対抗駅伝を走りたいと思って距離を伸ばし始め、3000m、5000mにシフトしていきました。でも、駅伝では補欠だったので結局走ることができなかった。悔しくて……3000m、5000mで勝負したい、と」
悔しさをバネに、「強くなるならここしかない」と、強豪校の佐久長聖高校へと進学した中谷選手。高校1年の終わりから2年までは貧血があって走れない時期もあったが、その期間を乗り越えてからは一気に実力を伸ばした。2年生の時、5000m13分台を記録。そして3年生になり、「日本人選手には負けなし」の快進撃が始まる。
・全国高校総体5000mで日本人トップの4位
・国体少年A日本人トップ2位
・日本選手権クロスカントリー優勝
・全国高校駅伝区間賞ならびに佐久長聖優勝
と、立て続けに結果を残し、名を轟かせた。
不振のトンネル、そして脱出
世代最強として注目されながら早稲田大学へと進学した中谷選手だが、大学1年生時に不振に襲われる。関東インカレ5000mではまさかの25位、U20世界選手権でも入賞できなかった。
「当時は気持ち的にも沈んでいて、高校時代の監督・高見澤先生やコーチの市村先生に電話で相談してみたこともありました。すると『今走れないことがマイナスではない』『この苦しい時期を乗り越えたらさらに強くなるんじゃないか』という声をかけてもらったんです」
「それから、関東インカレで初めて同級生に負けたときに早稲田の相楽監督が『必ず勝たなければ、というプレッシャーがなくなったじゃん』と言ってくださってからは、改めて挑戦者のような気持ちになっていました。両親や同級生たちにも『楽しんで走るのがいい』と言ってもらって。だいぶ気持ちは楽になっていったと思います」
周囲からの言葉に勇気づけられた中谷選手は、なんとか現状を打破したいという思いのもと、高校時代に取り組んでいたクロカン走や400mを練習に取り入れるようになった。
それでもなかなか思うように走れず、しばらく苦しさは続いたが、ついにトンネルを抜けるときがやってきた。 9月の世田谷記録会では、13分54秒39でゴール。
「夏合宿の後半からだんだん走れるようになって、練習も積めるようになってきていました。充実した練習ができていたので、おそらく記録が出るだろう、と。これだけやってダメだったら、本当に競走部を辞めようか……とか、僕にとっては覚悟を持って臨んだ記録会でした。それで結果を残せて、自信を取り戻せた試合になったと思っています」
単身ケニアへ 命がけで走る選手を目の当たりにして
復調後、着々と結果を残していた中谷選手は、2019年2月に開催された福岡クロカンで4位に入り、目標としていた世界クロカンの代表権を勝ち取った。もともと海外での練習経験を積んでみたいと考えていた中谷選手は、世界クロカン前に単身でケニア合宿を敢行することになる。
「長距離で強いのはケニア選手。オリンピックや世界陸上でメダルをとっているのもケニアの選手。実際にその環境に身を置いてみることで、強さのヒントを日本に持ち帰れるんじゃないかと思いました」
2019年始、箱根駅伝の報告会のころからケニア合宿をする意志は固まっていたというが、世界クロカンが決まったことで高地トレーニングのリスクなども周囲から伝えられたが、「それでも行きたい」と、3月に12日間をケニアで過ごした。
「とにかく、環境としてはすごくきつかった。標高もあって、足場も悪くて。アップダウンもあって。日本とは違ったきつさを感じました。そんな環境でも、ケニアの選手は当たり前のように走っているからこそ、ああいったスピードや強さがあるんだと実感させられました」
また、気持ちの面でも大きく刺激を受けたことがあるという。
「ケニアには、貧しい環境で暮らす家族を支えるための、お金を稼ぐ手段として走っている選手がたくさんいます。だからこそ、競技に対する真剣さやストイックさ、必死さが伝わってくるんです。
日本は恵まれているからこそ、『命がけ』という気持ちになることはなかなかないかもしれないけれど、それくらいの意識を持たないと強くなれないんだ、と気付かされました」
合宿を終えてから、ケニアで培った“強さのヒント”を日本でも実践したいと考えている。大学のチームメイトにも経験を伝えることで、練習方法や競技へと取り組む姿勢に、何か気づきを与えるきっかけになれば、それがチームにもプラスになるはずだ。
「出雲、全日本ではブレずに区間賞を狙い続けたい。今年はチームとしては難しい年になると思います。現段階では5位に入れるかというのが、今後チームが変わっていけるかどうかのボーダーラインになってくると思っています。
個人では、日本選手権とユニバーシアードに向けてしっかりと出場権を獲得して、トップ争いをしていきたい。そのなかでベースになるタイムというのが、5000mでいえば13分30秒台とか、20秒台になると思います。そこでまずは13分30秒台を確実に出す、というところを目標にしていきたいですね」
不振を乗り越え、飽くなき向上心を持って走り続ける中谷選手は、子どものころ「メダルがほしい」と願った気持ちと変わらず、今も純粋に結果を求め続ける。
「今後も、納得するまでトラックで勝負し続けたい。日本記録を超えるような記録で走りたいです。いつかはマラソンに挑戦するのもありかなと考えているけれど、まずはトラックで、オリンピックと世界選手権を狙いたいと思います」
インタビュー:八木勇樹 / 文:笹沼杏佳
プロフィール
中谷雄飛(なかや ゆうひ)
1999(平11)年6月11日生まれ。169センチ、57キロ。長野・佐久長聖高校出身。早稲田大学スポーツ科学部2年。自己記録:5000メートル13分45秒49。1万メートル28分50秒。