【BREAK THROUGH 〜挑戦者たち〜 Ep.3】若き闘将がゼロから作る新しい早稲田〜駅伝部監督・相楽豊

BREAK THROUGH 〜挑戦者たち〜とは
誰にでも諦めたい気持ちになることはある。暗いトンネルの中に放り込まれたような長く、辛い道のりだ。それは、第一線で活躍するアスリートや指導者も例外ではない。彼(彼女)らは、これまでどのような道を辿ってきたのだろう。『BREAK THROUGH 〜挑戦者たち〜』は、今活躍する指導者や選手の挑戦と挫折についてのインタビューを通じ、そのパーソナリティに迫るものである。

早稲田大学競走部 相楽豊監督

シリーズ第3回目は、早稲田大学競走部監督・相楽豊氏。2005年に同学のコーチに就任して以来、箱根駅伝では安定してシード権を獲得、2011年には早稲田大学の「大学駅伝3冠」に貢献した若き指導者だ。
2015年からは、渡辺前監督の退任に伴い競走部監督に就任した。競走部の核となりチームを率いる相楽氏だが、早稲田大学を卒業後一度は地元で教員として就職。大学に戻る考えはなかったという。そんな相楽氏を変えたある出来事とは、そして現在の競走部への思いとは。

相楽、コーチやってくんない?

鬼の相楽”の異名とはうらはら、物腰の柔らかな表情

 初夏の陽気を感じさせる早稲田大学所沢キャンパス。グラウンドに立つ男性は我々に気づくと、暫し手を休め挨拶をしてくれた。“鬼の相楽”の異名とはうらはら、物腰の柔らかな印象だ。聞くと、大学に戻ってきてからは「大分丸くなった」のだという。
相楽氏が早稲田大学競走部の指導者となったきっかけは学生時代に遡る。 2003年、当時早稲田大学4年生だった相楽氏は競走部キャプテンとして箱根駅伝に臨んでいた。しかしその役割は、チームメイトのサポート。

「大学4年生の時、キャプテンとしての使命感から初めて夏合宿の全メニューやりきったんです。そうしたら10月くらいから練習がしんどくなって。ジョグや流しは走れても、ポイント練習ではありえないタイムになる。11月下旬になり、やっと疲労感が抜けてきたので焦って練習を開始したところ、怪我をして、それが致命傷になりました。」

今思えば、典型的な“オーバートレーニング”の状態だった。この年、相楽氏の他にも主力を欠いた早稲田大学は、15位で大手町のフィニッシュテープを切る。最後の箱根でシード権を失った瞬間だった。

 卒業後は、地元である福島県で体育の教員となった。充実した毎日だったが、心に疼く箱根や母校への思いを一向に断ち切ることができない。仕事が休みの日は、福島から車で後輩たちの試合のサポートにかけつけていた。

「大学の卒業式の時、同期が『シード権を取り戻すまでは俺らの責任だよね』とこぼしたんです。それがずっと胸に引っかかっていました。はじめのうちは、すぐに(シード権を)取り返すだろうと思っていたのですが、なかなか再浮上してこなくて」

自分の責任――。福島と試合会場を往復するたびそんな思いが強くなった。
事が動いたのは、教員になって2年目の箱根駅伝だった。学生時代に5区と6区を走った経験から、いつものように箱根の山に向かった相楽氏。往路を終え、宿泊所で一息ついていたところ、同部屋だった渡辺康幸前監督から思わぬ言葉が飛び出たのだ。

「相楽、コーチやってくんない?」

「冗談だと思っていましたね(笑)。でも、2ヶ月後くらいに(渡辺)康幸さんから再度『コーチの話、俺、進めているから』と電話があったんです。康幸さんらしいというか」

教員になって以来、指導者として母校に戻ることは考えていなかった。悩んだ挙句、“シード権を取り戻すまで”と決めて、少々強引な勧誘を受けることにした。母校のため、そして何よりも“過去”を払拭できない自らのための選択だった。

選手自らの実力を“目に見える形”にする

早稲田大学 所沢キャンパスグラウンド

相楽氏がコーチに就任した当時の早稲田大学は、3年連続で箱根駅伝のシード権を落とすなど低迷が続いていた。しかし、実際に現場に出てみると学生の意識や練習内容は高いレベルで維持されている。

「意外にも、他学と十分に戦える練習ができていました。しかし、いざレースとなると号砲の瞬間に最後方に位置取ったりする。戦えるという実感、走りへの自信が不足しているように見えました」

箱根駅伝でシード権内を経験した部員がいなかった当時。チームは負けに慣れていた。そんな空気を変えるため、まず相楽氏が取り組んだのは選手自らの実力を“目に見える形”にすることだった。就任後は練習内容や体内組成などを徹底的にデータ化し、選手に一人ひとりにフィードバックを行なった。

「例えばですが、データがあれば今年箱根を優勝したチームと比べて今のチームはどの位置にいるのか現状分析ができます。また、連続して個人のデータを取ることで、入学時からどのように体が変化してきたかを知ることができます。

『この時期は怪我をしていたからこんな数字になったよね』とか、『過去に良い成績が出た時期のデータはこうだから、この時の体に近づけば良い結果が出る可能性高まるよね』と自らを客観的に分析するための指標を得ることができるのです」

コーチ就任当時、若干24歳だった相楽氏。学生にとっては気軽に話せる“お兄さん”的な存在だったのだろう。学生から相談を受けることも多かった。「なんで勝てないんですか」と率直な思いをぶつけられることもあった。「勝たせてあげたい、勝たせなくては」その思いは、ますます強くなっていった。
コーチ就任1年目こそシード権を落としたものの、就任2年目の箱根本戦では6位でゴールし、シード権を獲得。早稲田大学はその後も安定してシード権内で戦えるチームへと飛躍を遂げた。

「さまざまなデータを持っていたので、データと試合結果の間に高い再現性を見出すことができました。選手たちと理屈を持って話し合いができたことも、チームを良い方向に向かった要因だと思います」

 

悪夢の85回大会

シード権を取り戻すまでと決めていた早稲田での生活も、いつの間にかその期限をとうに過ぎていた。一見順調に見える指導者としてのキャリア。しかし、挫折について尋ねると苦虫を噛み潰したような表情になる。

「85回大会ですね」

第85回箱根駅伝。“山の神”、当時、東洋大学1年生の柏原竜二さんの登場が世間を大いに賑わせたその年。早稲田大学もまた往路を順調にかけ抜け、東洋大学に次ぐ第2位で芦ノ湖のフィニッシュテープを切った。
東洋大学の台頭は予想外だったが、渡辺(前)監督とはこの差ならば“往路で逆転できる”という認識で一致していたという。しかし、翌日蓋を開けてみれば、総合第2位。この時の負けは「完全に自分のミス」と相楽氏は言う。

「往路が終わった時点で、復路にも調子の良い選手を残していました。こちらに分があると思っていたので、当日は区間配置をガラッと変更して、下見をしていない選手をエントリーしたんです。そうしたら(その作戦が)全部裏目に出てしまって。

一度は引きつけて、一気に抜き去る――。完全に東洋大学さんの作戦勝ちでした。もし、ひと区間でも“ハマって”いたら早稲田が勝っていた。今でもそう思います。でも、箱根では一瞬でも隙を見せた方が負け。プライドや見栄を全て捨て去って貪欲に勝ちにいくことができなかった結果です」

自分にとっては毎年の箱根駅伝でも、学生にとってその試合は一生に一度。 悔やんでも悔やみきれなかった。全ては復路の区間配置を決めた自分の責任。渡辺(前)監督に「責任をとって(コーチを)辞めさせてください」と申し出、なだめられる一幕もあった。

「今でも悔しい思いは消えません。それでも、あの時の経験があったから2010年に学生駅伝3冠を達成した時には最善の選択ができた、そう思っています」

 

自主性を引き出す指導法とは?

グラウンド脇に掲げられた選手たちの目標

2015年、渡辺(前)監督の退任とともに監督就任の話が浮上。当初、前監督には「大変だぞ」と反対されたが、チームを引き継げるのは自分しかいないという使命感から押し切る形となった。

「監督になって感じたのは、康幸さんの存在の大きさです。コーチ時代は、良いことも悪いことも全ての注目が康幸さんに行くので、プレッシャーを感じることも少なかったんです」

前監督とは違い、一流ではなかった自分の言葉には説得力がないという相楽氏。しかし、その分「こうするべき」という固定観念がなく柔軟な対応ができることが強みだという。

「早稲田の陸上部には、オリンピック選手がいる一方で一般入試の学生がいる。バックグラウンドがバラバラなので、もちろん目標もバラバラ。その中で、全員で箱根を目指そう、あるいは日の丸を目指そうというのはおかしな話です。人に押し付けられた目標ではなく、各個人が設定した目標を大切にする必要があるのです。

あれをやれ、これをやれと言うこともできますが、それでは成功しても失敗してもその子の経験値にはなりません。僕の手を離れて社会に出た時に、自分で考えて行動する人間になれるか。

自分にできるのは、選手自身が決めて、行動できる環境を担保することだと思っています。目標と自分の状態が一致している選手は強いですよ」

選手自身の個別性を尊重し、自主性を引き出す――。それが早稲田の育成のベースだ。さまざまなバックグラウンドを持つ選手同士が、少しずつお互いを認め合い、ひとつのチームとして成長していく4年間がそこにはある。

「就任当時は、康幸さんも僕も指導経験が浅く、お互いの足りない部分を補い合いながら、2人で一人前という意識を持ってやってきました。今後、駒野(亮太)コーチともそんな関係になっていきたいと思います」

 

ゼロから新しい早稲田を

2018年度は早稲田大学にとってよいシーズンとは言えなかった。学生三大駅伝では、出雲駅伝10位、翌月の全日本大学駅伝では大学史上最低となる15位、挽回を図った箱根駅伝ではまさかの12位でシード権外に沈んだ。
早稲田大学が箱根駅伝でシード権を落としたのは、コーチに就任1年目以来、13年ぶりだ。練習は順調だったものの、主力に故障やアクシデントが相次ぎ、ベストメンバーで戦えなかったことが大きな要因だった。

「昨年は思い知らされた1年でした。Wエースになる予定だった4年生の永山(博基)と3年生の太田(智樹)が故障で年間を通して試合に出られなかった。彼らを満足のいく状態でスタートラインに立たせてあげられなかったことが残念でなりません。

しかし、他の大学にとっても条件は同じですから『不運だった』で片付けることはできない。今年は、昨年までのやり方を全て見直しました。きっと、なんとなくシードが取れていたら変化が必要だと思わなかったでしょうね。今では、必要な経験だったと感じています」

相楽監督のスマホの待受けは2018年度箱根駅伝のゴールの瞬間。悔しさを忘れないためだが、選手には内緒にしている。

まずは通年の目標に「怪我をゼロにすること」を掲げる。現在、怪我人はほとんどいない。結果が振るわなかったことで、チーム内には悲壮感が残っているのではないか。そう尋ねると、(シード権を落とした)13年前と現在は「全く状況が違う」という。

「13年前の早稲田は4学年全ての選手がシード権を経験したことがなく、成功体験のない集団でした。しかし現在は、箱根で3位入賞を経験した選手や全日本でトップ集団を率いた選手もいる。理由のない悲壮感はありません」

チームや自身がどんな状況に置かれようとも、原因を冷静に分析できるデータと経験値。13年前の早稲田にはなかったものだ。

「13年前のデータはもちろん持っています。しかし、あえて選手に見せることはしていません。今の選手には、ゼロから新しい早稲田をつくっていってほしい」

「早稲田は勝たなければならないので」インタビュー中、聞き流してしまうほどサラリと発された言葉。裏腹に、瞳には自責の念、そして揺るぎない覚悟が滲んでいた。今年度は、これまで積極的ではなかった記録会にも立て続けに出場、エースの中谷雄飛選手の単独のケニア合宿を敢行するなど新しい取り組みにも挑戦している。

ゼロから新しい早稲田をつくる――。若き闘将の言葉通り、伝統校が捲土重来を果たす日も近い。

インタビュー/文/写真:吉田華恵

 

<プロフィール>

相楽豊(さがら ゆたか)
1980年5月2日 福島県出身 2003年早稲田大学人間科学部卒業。4年次には競走部キャプテンを務め、卒業後は福島県で教員として勤務。2005年に早稲田大学競走部長距離コーチに就任、2010年には学生三大駅伝3冠に貢献した。2015年より早稲田大学駅伝監督に就任。