“エースをつくる”から“チーム力をつくる”へ。 やっとここがスタートライン Episode.1 法政大学陸上競技部 駅伝監督 坪田智夫

BREAK THROUGH 〜挑戦者たち〜とは

誰にでも諦めたい気持ちになることはある。暗いトンネルの中に放り込まれたような長く、辛い道のりだ。それは、今第一線で活躍するアスリートや指導者も例外ではない。彼(彼女)らは、これまでどのような道を辿ってきたのだろう。BREAK THROUGH 〜挑戦者たち〜は、今活躍する指導者や選手の挑戦と挫折についてのインタビューを通じ、そのパーソナリティに迫るものである。

第1回目の今回は、法政大学陸上競技部 坪田智夫駅伝監督。

法政大学時代の第76回箱根駅伝では、1区区間賞の徳本一善さん(現:駿河台大学陸上競技部監督)から襷を受け取ると、攻めの走りで連続区間賞。過去に類を見ないほどのロケットスタートはお茶の間に“オレンジ旋風”を巻き起こした。当時の陸上選手らしからぬ見た目と飛び抜けたパフォーマンスを記憶しているのは、箱根ファンだけではないはずだ。

現在は、母校、法政大学陸上競技部駅伝監督である坪田氏。法政大学陸上競技部といえば、近年連続して箱根駅伝シードを獲得するなど、安定した強さを誇る右肩上がりのチームだ。今年、“指導者歴10年”という節目の年を迎える彼にはどのような物語があるのだろうか。

何気なく始めた陸上

「4つ上の兄に脚が速い奴はモテるぞと言われて。」

中学で陸上を始めたことに深い意味はなかったという坪田監督。飄々とした風貌から発せられるハキハキとした物言いとは対照的に、時々はにかむような笑顔を見せる。

長距離走を専門に選んだのも、小学2年生から6年生まで通った水泳教室で心肺機能が鍛えられているのが有利だと思ったから。「オリンピックや箱根を目指していたとか、全くないですね。ほとんど観たこともありませんでした。陸上で身を立てることになるなんて、本当にまさかですよ笑。

名門、西脇工業や報徳学園を有する兵庫県は、当時から全国指折りの強豪県。無名だった坪田氏に声がかかることはなく、一般入試で公立神戸甲北高校に進学した。「陸上は高校まで。」当然のようにそう考えていた。

「兵庫県には、夏に高校1・2年生だけが出場できるジュニアという大会があって。そこで3位までに入れば、一つ上の近畿大会に出られるんです。1年生の時は、何も考えずに走って(5000m・10000mで)4番と5番。近畿大会に進めるのは各校2人までだから、来年一人食えば(近畿大会に)行けるじゃんと!」。――意気込んで臨んだ2年次のジュニア大会だったが、結果は4番・4番。またしても近畿大会へ進むことはできなかった。

「それがもう、悔しくて、悔しくて。」

その悔しさをぶつけるように走った翌年の県大会5000mで見事に予選を通過。念願だった近畿大会では一人、また一人と上位選手に食らいついた。気がつけば6着でゴール、図らずしもインターハイへの扉を開いていた。記録の14:25秒は、その年のインターハイ10傑に入るタイムだった。

複数の大学から話があったが、法政大学を選んだ理由は「自由な練習」ができそうだったから。また、「絶対的な指導者」がいないことも面白そうだと感じた。箱根駅伝を最後まで観たのは、大学進学が決まったその年が初めてだった。決してエリートではない、目の前の勝利を追うことに懸けた青年に運命は次のステージを用意した。

世界で感じた絶望と熱狂

大学入学後は、箱根を3度走り区間賞を獲得するなど、数々の記録を打ち立てた坪田氏。4年時の最後の箱根では、1区、徳本一善(現:駿河台大学陸上部監督)とともにぶっちぎりで独走し2区間賞。押しも押されもせぬエースに成長していた。

卒業後は、実業団のコニカ(現:コニカミノルタ)に進んだ。坪田氏はその理由を、当時のコニカにマラソンに勝つためのノウハウが“なかった”からだという。

「このくらいの練習をすればこのくらいのタイムが出る。そんなガチガチのノウハウがあったら窮屈ですよ。その点、当時のコニカにはそれがなかった。一から自分でやれるなんて、面白いじゃないですか。

マラソンを中心に思い描いていた実業団での競技生活だったが、実際に結果が出たのは、駅伝やトラック種目だった。ニューイヤー駅伝では優勝6回、区間賞5回。優勝のなかったコニカミノルタを「平成の駅伝王者」と言われるまでに押し上げた立役者だ。さらに、2002年、日本選手権10000mを制すると、翌年には世界陸上パリ大会に代表として選出される。

「2000年のシドニー五輪で高岡(寿成:現カネボウ陸上競技部監督)さんが10000mで7位に入賞していました。日本人でも先頭からこぼれる選手をうまく拾って行けば、入賞ラインにたどり着けるという認識がありました。」

しかし終わってみれば、トップとは周回差をつけられての予選敗退。惨敗だった。

「5000mまでは、ベケレ(ケネニサ・ベケレ:エチオピア)の背中が目の前にあったんですよ。でも彼らはそこからが、ヨーイ・ドンであっという間に突き放された。29分半くらいの試合をしてしまったのかなと思いましたが、ゴールで時計を確認したら28分半。」

その時のトップは26分台のゴールタイム。世界の壁は予想以上に高かった。それでもその時に感じた熱量は、その後の競技人生に深く残り続けた。

あの舞台(世界陸上)にはお金を払ってたくさんのお客さんがくる。それだけの魅力があるから。雰囲気が違うんです。もう一度あの舞台に立ちたいという思いは、ずっとあった。それくらい魅力的な舞台。

その後も世界の舞台を目指し競技を続けたが、そのチャンスが巡ってくることはなかった。引退を考えたのは、31歳を迎えた年(2010年)のニューイヤー駅伝がきっかけだったという。「その年僕はアンカーで、トップの日清食品を追う2位で襷を受けて。当然トップを取ってゴールするつもりで走ったけれど、どうしても15秒が捲れなかった。勝てた試合で負けたんです。

年齢的にも世界を目指すには限界を感じていた。母校から指導者としての打診があったのはその春のことだった。

就任時に感じた競技者としての温度差

提供:H.kaede

2010年、コニカミノルタに籍を残しつつ法政大学のプレイングコーチに就任。指導者としての人生がスタートした。就任当初、一番頭を抱えたのは、選手自身の「目的意識の低さ」だった。ピアスに茶髪、朝寝坊……生活態度の乱れは競技成績にも現れていた。

「世界を目指すのが当たり前の環境にいたので、こんなことまで指導しなきゃならないのか!という気持ちにもなりました。怒られないために平気で体重をごまかす選手もいましたからね。でもそれって何のため、誰のためなんだよ!と。

練習一つにしてもそう。例えば、400m×10本という練習があったら、『70秒でした。』それ以上のものが出てこない。本来、選手が30人いたらその練習には30通りの目的があるはずなのに。」

坪田氏には、圧倒的な指導者に師事した経験がない。驚くことに大学時代は、4年時に成田道彦駅伝監督が就任するまで2年半もの間、監督不在。日々の練習メニューは自分たちで考えた。「自分で考えなければそこで終わり。」――競技者としての目的意識の高さは、そんな環境によって磨かれた部分も大きい。

「当時の学生の中には『法政は遊びながら箱根を目指せる』みたいな認識があったんです。そうなったのは、自分たち世代に罪がないとは言わないけれど。それでも僕たち世代には、自由にやらせてもらう以上、結果を伴わせることが第一条件という共通認識があった。時間が経つにつれ、本質の部分が抜け落ちて悪しき風習だけが残ってしまっていたんです。今はだいぶ変わってきました。」

坪田氏は、選手にいつも「自分で考える」ことの大切さを説く。「自由とは、いつでもリスクととなり合わせ。支えてもらっている身である以上、競技に対する覚悟だけは忘れてもらいたくないんです。」

絶対的エースの不在と箱根落選

プレイングコーチ就任の年には競技を引退。翌年にはコーチ、2013年には駅伝監督に就任した。指導者として関わって以降、2010年、11年は箱根駅伝の本戦出場を逃したものの、12年には本戦出場、さらには上位10校に与えられるシード権も獲得した。順調に箱根を目指せる体制が出来てきた――そう思っていた矢先、13年にシードを落とすと、翌14年には本戦出場すら逃してしまう。

「自分がそうだったように、チームというのは圧倒的なエースが引っ張っていくものだから、とにかく世界を目指せるようなエースを育成しようと考えていました。2012年と13年は、たまたま西池(和人:現コニカミノルタ)がいてくれてチームがうまく回っていた。でも彼が怪我をしたら、あっという間に全体が崩れてしまった。」

エースをつくることへの執着から、チーム全体への配慮を欠いた――坪田氏はこの時のことを指導者としてのターニングポイントと振り返る。

「あの時は改めて、これからどうやって(箱根を)通そうかと悩みました。その結果、やっぱり箱根に出られなくてはみんなが悔しい思いをする、まずは箱根に安定して出られるだけの基盤をつくる、“チーム力をつくる”ことが大切なんだというところに行き着いて。

チーム力をつくるには、選手たちが目標を共有し、同じ方向を向くことが欠かせない。坪田氏はそれ以来、チームとしての考えや方向性を、時間をかけて選手たちに伝えるようにした。また、同時に「あまりやりたくなかった」が“チーム力をつくる“ための手段として、同じようなレベルの選手の育成にも取り組んだ。要するに箱根仕様だ。

「聞こえは良くないけれど、誰かが欠けても代わりの選手がいる。そんなチーム状態にしていくことが必要です。仲間への信頼は、一体感を生む。そして同じレベルで切磋琢磨するライバルの存在は、個の力にも還元される。誰かに引っ張ってもらうのではなく、チームとして一段一段階段を上って行こうと。エースを育成するのは、その後ですね。」

画像:5区青木涼真、6区坪井慧(2019年)提供:H.kaede

法政大学は、ここ数年安定して箱根駅伝のシードを獲得している(2017年8位、2018年6位、2019年6位)。その安定感は、山(箱根5区)やエース級の選手が出てきたことも一つの要因だが、実際に箱根を走る10人だけではなく、エントリーメンバーの16人の中で「誰を外すか」を考えられるチーム状況を作れていることが何よりも大きい。

「選手一人ひとりに自力がついて、徐々にチームとしての基盤が固まってきたと思います。やっとここがスタートラインですね。

新しい法政の“色”を

法政大学陸上部では、例年、箱根後のミーティングで選手同士が話し合い一年の目標を決めることにしている。今年の目標は、来年の箱根駅伝4位入賞だ。

「箱根が終わってから、多くの選手から『悔しい』と言う言葉を聞きました。現状に甘んじない姿勢が感じられたことは収穫だと感じています。何よりもまずは、目の前の結果を出すことが重要。――箱根を獲りたいですね。

最後に、指導者として10年目。節目の年を迎えた坪田氏に「指導者の役割」とは何か聞いてみた。同氏は少し考えてから、丁寧に言葉を返した。

「チームが船だとしたら、監督はエンジンではないし、進む方向を決める船頭でもない。強いていうならば、選手が道に迷った時に微調整をする“ほんのすこしの舵取り役”くらいじゃないですか。

チーム状態に関しても“自分が監督じゃなくてもよい状態”が理想だと言う。一見、自身の存在意義の否定にもうつる言葉。その真意は、選手一人ひとりが、自ら考え主体的に動ける人間になって欲しいという思いだ。

今後、彼らが競技者を続けるにしても、企業に就職をするにしても、どの世界でも、自分で考えて動けない人間が一流になることは難しい。しかし、教育機関のような大きな枠組みの中にいると『監督の指示に従っていれば結果が出る』と疑わない学生もいます。それは環境がそうさせてしまっている部分が大きい。

例えば、『練習計画を考えたので、スケジュールチェックだけしてください!』っていう選手が現れたら、僕は嬉しく思います。その時は、一緒に考えて『やってみろ!』と背中を押したい。今はまだ道半ばだけれど、自分がいなくても回るくらい確固としたカルチャーがある。そういうのをこれからの法政の“色”にしていきたいと思います。願わくば、そんな中で世界を目指すような選手が生まれてくれたら。

だって、自分で考えて、それが結果になる、こんなに“面白い”ことってないでしょう?」

終わりに

3月某日、晴天の青空と心地よい風がいよいよ春を感じさせる法政大学多摩キャンパス。正門から約束の陸上競技場まで、約1kmも続くなだらかな坂を息を切らせつつ歩けば、各所から威勢のいい掛け声が聞こえる。
坪田氏は、常に考える人だ。そして、リスクと引き換えに面白そうな方を選び、 自らの道を切り開いてきた人だ。自らを枠にはめることなくチャレンジしてほしい――そんな指導者のメッセージは、今後も着実に法政大学のカラーを、歴史をつくっていく。

八王子ロングディスタンスでも使用される同校の陸上競技場は、4月1日に数か月にわたる改修工事を終えた。
真新しいタータンから、次はどのような物語が生まれるだろう。

インタビュー/文/写真:吉田華恵

 

<プロフィール>

坪田智夫(つぼた ともお)
法政大学陸上競技部 駅伝監督
1977年生まれ。兵庫県出身。中学時代から陸上を始め、法政大学、コニカミノルタを経て2013年4月法政大学陸上競技部駅伝監督に就任。第76回箱根駅伝2区区間賞、2003年世界陸上パリ大会男子10000m代表、第86回日本選手権男子10000m優勝、ニューイヤー駅伝優勝6回・区間賞5回。