岡田健です。アメリカ留学体験コラム第3回です。
前回は、アメリカの大学への陸上留学を実現するためのステップについて、またその中でも大切になってくる、英語試験、TOEFLとSATの基準について、書きました。
【岡田健のコラム vol.2 〜留学準備編①】
https://mag.zone-project.com/world/892/
今回は、高校3年生の僕がぶち当たった試練についてです。
甘くはなかった英語試験
英語が得意だと思っていた僕は、これらの試験を甘く見ていました。が、すぐにそれが間違いだったことに気付かされます。
2014年の5月、高校3年生になりたての僕は、初めてのTOEFLで120点満点中59点を取りました。TOEFLは Reading、Listening、Writing、Speakingの4つのセクションに分かれていて、それぞれが30点満点、合計が120点に設定されています。
僕の取った59点は、普通の高校3年生にしてはかなり高い方なんです。予備校の先生も「ろくに対策もしなくて59点はなかなかすごいよ!」と言ってくれたくらいに。
けれど、僕は内心焦りました。入学するための目標点は81点だったからです。そのためには1セクションあたり5~6点上げないと届きません。ReadingやWritingは、高校の勉強の延長戦上なので、伸ばすイメージはなんとなく出来ていました。
しかし、Listeningは何を言っているのかさっぱり分からず、あてずっぽうで解答したところも多く、Spekingに関しては質問の意図さえ汲み取れず、与えられた30秒や1分の解答時間の最後の方に黙ってしまうなど、散々でした。
不安に襲われました。主将として全国高校駅伝にチームを導くという一番の目標が、自分の都合で目指している留学のせいで疎かになってしまうのではないかと。チームメイトからは良く思われないんじゃないかと、そんなことを考えたことを思い出します。
(高2で優勝したインターハイ東京都予選でも、ライバル選手に完敗してしまいました。)
忙しすぎた留学準備と1日のスケジュール
予備校に通いだしてから、陸上の成績は落ちました。それもそのはず、予備校に行く日は、睡眠時間が6時間以下しかとれなかったのです。その頃の一日のスケジュールはこんな感じでした。
5:20 起床
6:00 登校
7:30 学校に到着
~8:00 自習室で勉強
8:30~14:10 授業など
14:10~17:00 部活(予備校に間に合わすため、皆の集合に参加しないことも多々あり)
17:00~17:30 予備校のある渋谷に移動
17:30~18:30 授業前に渋谷で一人で夕食
19:00~22:00 予備校の授業
23:30 帰宅
23:50 就寝
予備校には週2、3回通っていました。こんなスケジュールの中、最後のインターハイやその後の駅伝に向けて質の高い練習もやっていたので、だんだん身体的にも精神的にも限界が近付いていました。
すると、2年生の頃に難なくこなせていた練習が、こなせなくなることもしばしばで、予備校のない日でも、宿題や自主学習に追われていたので、息をつく暇がありませんでした。
そしてついに限界を迎え、感情が溢れる
ある日の練習でのことです。通っていた久我山高校ではジョグの前に補強としてサーキットトレーニングをするのですが、その日はなんだか全員元気がなく、雰囲気が良くありませんでした。
たまりかねた僕は、主将として皆を集合させ、喝を入れようとしました。輪になった皆にきつい口調で話を始めたとき、ふと思ったのです。
「自分が主将なのに走りで引っ張れていない」
「だからチームがこんなに元気がないんじゃないか」
「自分の都合でチームに迷惑をかけているんじゃないか」
そう気付いたときには涙が溢れて止まりませんでした。チームの皆はいきなり泣き出した主将に大困惑です。いたたまれなくなった僕はその場を走って去ってしまいました。
僕が去った後を、他の3年生が「お前一人で背負いすぎるな」と声をかけてくれました。その気持ちは、とても嬉しかったです。それからは、自分がしんどいときはチームメイトにも頼るようにしました。良いチームメイト達に恵まれました。
それでも試験は甘くない
さて、話は夏休みです。高校の授業から開放された僕は、予備校での勉強と、厳しいトレーニングを繰り返す毎日を過ごしました。合宿には、テキストを持ち込んで、誰もいなくなった夜の食堂で勉強をしました。そんな僕を、チームメイトも応援してくれました。
(國學院久我山時代の夏合宿で撮った集合写真)
「ちゃんと勉強したし、試験の点数も上がるだろう」
そう思って臨んだ2度目のTOEFLは、なんと50点。「嘘だろ?」何かの間違いかと思いました。何度見直しても成績表には50点の文字しかありません。初回の59点はビギナーズラックか何かみたいなほど、全てのセクションで前回以下だったんです。
「留学は無理かも…」
そんな弱気なことを一瞬考えました。
しかし、一度「やる」と宣言した挑戦、たくさんの方に応援して頂いていたので、逃げ出す訳にはいきません。僕はなんとかして、この31点のギャップを埋める方法を考えなければなりませんでした。
同時に、SATというアメリカの高校生も受験する日本人にとっては難易度の非常に高い試験もクリアしなければなりませんでした。
さらに、夏休みが終わり駅伝シーズンを迎え、チームも自分自身も、全国駅伝出場のための大事な時期に差し掛かりました。その年の僕たちには、日体大荏原高校という強いライバルがいたからです。僕がそれらを達成するためにやったことは、ただひとつ。
「コツコツとやれることを一つずつ増やしていくこと」
これだけでした。
次回の記事では、僕がドン底だった試験の点数をどうやって伸ばしたのか、そして同時にチームをどう引っ張ったのか。その「コツコツ」について書きたいと思います。